民家の真下を避けて掘るべきやったのに、ちょうど家の真下を通ってしまっていたために、大正十四年ごろある家の石垣が崩れ落ちてしまいましたんや。そのため当時の千円の補償金が支払われたそうですわ。
坑道内は松のクイで組んだ坑木が今でも残っているはずや。クイはノコギリとオノだけの道具で作りましたんや。坑道の天井やわきの壁土が崩れても倒れないような坑木の組み方をし、山手に向けていくぶん斜めに柱を立ててな、クギやかすがいは使われていないそうですわ。亜炭の層は上から九尺(二・七五メートル)、九尺五寸(二・八五メートル)、三尺(九〇センチ)の三層からできていてきぶし粘土のたまの形をしておりましてな。大正十四年ごろまでは当時、大阪の産業会社が掘っていましたんやけどその後、短野出身やった大屋戸の海軍大尉さんが、粘土を取るために掘っていたそうですわ。
話 広畑雄平さん(明治三十五年生まれ)
吉本貞一さん(大正八年生まれ)
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