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浮池(短野)



 奈良に都が置かれていたころのことじゃ。黒田庄を中心とした山は「板蠅杣」と言われ、東大寺の領地でもあったんじゃ。人々は、その山からたくさんの木を切り出して奈良へ運んでいた。短野の西の方の山でも多くのきこりが木を切り、山頂付近にある大きな池に運んで浮かべていたそうじゃ。
 ある日、いつものように一人のきこりが山へ木を切りに行く途中池を見るとな、いつもより木が多かった。びっくりして大声で、
「おーい、池に木がいっぱいたまったぞ。」
「そうか、そいじゃみんなで土手を破ろうや。」
山で働いていた人たちが池に集まって
「よいかのう。破るぞ!ソレーッ。」
威勢のよい声が響くと、池の東側にある堤が破られ、池に浮いていた木は先を争うかのように水といっしょに、谷間の下に流れ落ちて行ったのじゃった。
 約二キロ下流が下三谷口で、名張川と合流。流れ出た木は、いったんこの下三谷口で集められてな、いかだに組まれ、名張川を下り、月ヶ瀬、笠置を流れて木津で陸あげされるのじゃ。ここで板や柱に加工されてな、奈良へ運ばれて作られた古代の建物が、今もたくさん残っておるんじゃ。
 短野の大池はな、一度このようにして破った後、また元通りになおして、日がたてば水がたまってな、切り出された木が、池一面に浮かぶんじゃ。木を浮かべた池ということからな「浮池」と呼ばれるようになったんじゃと。
 昔、浮池の土手でな、村人たちが困っていた時のことじゃ。
「このままやと、大池は決壊して村は全滅じゃ。」
という話が広がってしもうてのう。相談しておったんじゃが、
「人柱を立てたら、村は助かるんとちゃうか。」
誰かがそんなことを言うたもんで、その中の一人が早合点して自分やと思い込んでしもたということなんじゃ。そしたら、その人は数日後、不思議なことに浮池のほとりでぽっくり死んでしまい、村人たちはびっくりして顔を見合わせたんじゃと。
 この浮池は短野の民家のある所からな、歩いて二十分ほどかかる山ン中にあるんじゃが、今では、木をためるんじゃのうて短野、下三谷といったような二つの地区の用水池としてな、役に立っておりますんじゃ。
話・福西幾三男さん(明治二十九年生まれ)

▽黒田庄(くろだのしょう)=黒田にあった奈良東大寺の荘園。歴史的な意味は大きく、研究者らから注目されている。
▽板蠅杣(いたはえのそま)=「杣」とは本来、植林して材木を切り出す山、の意味。



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