back

皇子と白鹿(鹿高・矢川)



 壬申の乱のころのことです。大海人皇子は奈良・吉野で兵をあげ、榛原をへてやはり奈良の大野・三本松から伊賀へ入ろうとやって来ましたんや。鹿高のあたりで宇陀川を渡らなければなりませんのやが、あいにく前日の雨で川は増水。渡れそうにありませんでしたのや。思案していると、どこからともなく一匹の大きな白い鹿が現れたそうや。大海人皇子にとってはありがたい助け船。白鹿に乗って川を渡ったんやが、不思議なことにそのとき川の水は減り、家来たちもあとに続いたそうじゃ。
 この土地は「鹿の里」と呼ばれてましたんやが、いつしか「鹿高」と呼ぶようになった。それに鹿は矢川の春日神社の山に姿を消したともいわれておるそうじゃ。
話・黒田のお年寄り

 壬申(みずのえさる)におきたことから、「壬申(じんしん)の乱」といわれています。約千三百年前の昔、天皇の継位をめぐる内乱で、天智天皇の皇太弟「大海人皇子」と「大友皇子」が争いました。天皇は大友皇子を後継者にと考えており、天智天皇が他界したあと、大友皇子は近江で即位。弘文天皇となりました。しかし、出家して吉野でその時を待っていた大海人皇子が挙兵。皇子は途中兵を集めながら伊賀神社より、柘植、尾張、美濃から近江に入って朝廷軍を破り、即位して天武天皇となりました。

▽大海人皇子(おおあまのおうじ)
▽大友皇子(おおとものおうじ)
▽天智天皇(てんちてんのう)



●鹿高神社2008/1/11現在。携帯で撮影。参道の途中を国道165号線がぶち抜いています。


@国道165号線より南側の鳥居


A菅笠日記(*1)の石碑。写真@の下に位置


B国道165号線より北側の鳥居


C国道165号線より北側の鳥居

(*1)本居宣長が(*1-1)43歳の時に吉野を訪れた時の紀行文。
(*1-1)もとおりのりなが。享保15年(1730年)〜享和元年(1801年)。三重県松阪市の生まれ。現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。

●鹿高神社2008/4/4現在。携帯で撮影。


@


A


B


C


D


E


F


G


H


I


J


K


L


M


N


O


P


Q


R

top

back