back

知言坊と大蛇(黒田)



 天正伊賀の乱のあと、黒田出身の「岩宝安之丞」という武士がおりましたそうや。今の藤堂屋敷の高台に名張城を築いた「松倉豊後守勝重」の子供、重政の家ですわ。豊後守は、九州・島原城六万石の城主になりましたんやが、島原の乱がおこりましてのう。松倉家は、断絶、家来の安之丞も浪人になってしもうた。
 安之丞には島原で愛していた一人の若い女がいてのう。けれど、浪人の身になっては食べていくのもたいへんなことで、女を幸せにすることはとうていできん。安之丞は黙って黒田の地へ帰って来ましたんじゃ。しかし、別れて来た女が毎晩のように夢枕にうらめしそうな顔で現れるので、無動寺の住職「快誘」のもとに行き、仏門に入りなすった。名を「知言」と改めて毎夜、修行に励んでおった。
 ところがある夏の暑い日に、女が安之丞を慕ってはるばる遠い九州から黒田にやって来た。二人は偶然にも道端で出会ってしもうたんや。深編笠をかぶり僧の姿になっている知言を一目見て女は声をかけたそうじゃ。
「あのう、もしやあなた様は、安之丞さまではございませんか。」
「いや、わしは知言と申す坊主でござる。」
「いえ、お姿はお変わりになっていらっしゃるけれど、安之丞さまに違いありません。安之丞さま、わたくしでございます。」
女は知言にしがみつくようにして言いなすったそうじゃが、
「人違いじゃ。わしは、そなたに会ったこともない。さあ、道を開けなされ。」
知言は一瞬、はっとしたものの、つれなく言って女を突き離してしまったそうじゃ。女は、なおも知言の後を追って来て、
「安之丞さま、あまりでございます。わたくしはあなたさまだけが生きがいでした。なのに、どうして…。わたくしは、今日戻ってくださるか、明日戻ってくださるかと、毎日あなたさまのことばかりを考えて暮らしておりましたのに。」
女は涙ながらに切々と訴えましたんや。しかし、知言は、
「わたしは知らない。そなたの思い違いだ。」
まったく聞き入れへんだそうじゃ。
 知言坊につれなくされた女は、黒田の村人「竹田貞則」に訴え出ましたんや。貞則は、知言を呼んで一緒になるようにさとしたけど、知言の決心は動かんかった。
 女は覚悟を決め、知言の家の前で食を断ち、数日後に死んでしまいましたんじゃが、そのとき
「はるばると とうて尋ねて 百七日 会うてはかなき 知言坊かな」
恋のはかなさを悲しみ、恨みのこもった歌を口ずさんで息絶えてしもうた。
 ところが、その夜から知言の枕元に大蛇が現れ始めた。大きな口をあけ、ひとのみにしようと、ものすごい形相で追って来るそうじゃ。あまりの恐ろしさに刀で切ろうとすると、大蛇は裏庭の大石の下に隠れてしまう。知言は夜も眠れず、気もくるわんばかりになったそうや。貞則はその様子を見て、
「死んだ女の思いがまつわりついているのだ。今すぐ宮を造り、八万大菩薩を祭るのだ。」
 知言が、さっそく八幡宮社を建てると、大蛇はもう現れんかったそうや。
話・黒田のお年寄り

 八幡宮は黒田の山ろくにありましたが、明治四十年「勝手神社」に移して祭られました。大蛇がかくれた石は「竜陰石」の名で今でも残っています。
▽天正伊賀の乱=織田、北畠一族の争いで、天正年間(一五七三〜一六〇二)に起きた。名張市史によると、第一次、第二次があり、第一次は天正七年(一五七九)信長の子、信雄が伊賀を攻めたが、失敗。天正九年(一五八一)信長が出陣。強大な力で進攻、神社、仏閣、民家を焼き払い、攻略した。
▽島原の乱=寛永十四年(一六三七)に起きた九州・天草や島原半島のキリシタン一揆。天草四郎が中心だった。
▽松倉豊後守勝重(まつくらぶんごのかみかつしげ)=天正の乱のあと伊賀へ入国、上野城を築いた筒井定次の重臣。



●勝手神社2008/8/19現在。携帯で撮影。名張市黒田


@


A


B


C

top

back