back

尼御前の墓(滝之原)



 滝之原の東南の山の中ほどに「女王堂」という地名があって「尼御前(あまごぜん)」をまつったと伝えられている古い五輪塔があるんや。今から八百年ほど昔の源平時代に、このあたりの土地を所有していた「池禅尼(いけのぜんに)」という女の人がいてな、その人の別の呼び名が尼御前やったんやわ。
 平家が衰退した後、各地の平家領は没収されたんやけど、池禅尼とその子供の頼盛の領地だけはそのまま残されたんやて。それは、頼朝が池禅尼に命を助けられたことがあって恩義にむくいるためだったそうや。池禅尼の領地は、滝之原を含む「伊賀六箇山」で、古老たちは「アマコウゼン山」と呼び、池禅尼の持っていた山だと言ってますんやわ。
 滝之原は、昔から平家の落ち武者が住んでいる村と伝えられていましてな。「おまと」といわれる古式にのっとった「弓引行事」は、平家の落ち武者が始めたと伝えられています。毎年一月九日に、上出地区の八人衆と呼ばれている八軒の家だけが代々行ってきたそうで、たしかにその行事の内容は武人の要素があります。
 八軒とも平家の家臣で、源氏に追われて逃げて来た所が池禅尼の土地の滝之原。池禅尼の石塔を建てたのもこの八家だそうです。
 今は「若子祭」となった弓引行事。こんな歴史を秘めていますんやなあ。
話・山森雄蔵さん(明治三十六年生まれ)

 池禅尼のもともとの名は「宗子」。「京都・六波羅」の「池殿」に住んでいました。夫の平忠盛が死んだ後、出家。「池の尼」ともいわれたようです。
 池禅尼のことは中世前期の戦記文学「平治物語」にも載っています。
 忠盛の後妻になってから清盛を義母として養育。平家と中御門家を取り結び、一門繁栄の基礎をつくり、保元の乱(一一五六)では清盛の勝利に結びつかせました。さすがの清盛も頭が上がらなかったそうです。
 平治の乱(一一五九)は清盛と源義朝やその子供・頼朝との争いです。頼朝は清盛に捕らえられましたが尼御前の頼みで命は助けられました。



●滝之原の不動寺と国津神社2008/3/24現在。携帯で撮影。
尼御前の墓を探したのですがわかりませんでした。やはり土地の詳しい方に尋ねるしかないのでしょうね。またの機会に。


@不動寺/案内板


A不動寺/道を少し登りました


B不動寺/遠景。こんなところに


C不動寺/正面遠景


D不動寺/正面近景


E不動寺/本堂近景


F不動寺/本堂左側


G不動寺/井戸でしょうか。敷地の右手


H国津神社/正面遠景


I国津神社/一の鳥居


J国津神社/二の鳥居


K国津神社/御祭神


L国津神社/三の鳥居


M国津神社/石碑。神選田


N国津神社/宝物殿でしょうか。敷地の右手


O国津神社/拝殿


P国津神社/拝殿近景


Q国津神社/拝殿の左手


R国津神社/明治神宮と橿原神宮の遥拝標

top

back