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弘法さまと薬師寺(神屋)



 昔、弘法大師さんが修行の旅をして伊勢へ向かっていたときにな、神屋の吉原を通りかかったそうな。その頃、この付近の村では疫病がはやっとった。村人たちは原因のわからない病気に大そう苦しんで、困っていたそうな。その様子を見た弘法大師さんは
「まことに気のどくなことじゃ。わしが仏の力をもらって救ってやろう。」
その日は、この村にとまることにしなさったんや。そしてな、一尺四寸五分(約四〇センチ)の薬師如来様の像を一晩がかりで彫りあげてな。
それをたいせつにおさめておがんだんや。そしたら、不思議なことにな、村の疫病はピタリとおさまってしもうた。苦しんでいた村人たちは大喜びで、
「お大師様のおかげや。ありがたいお薬師様をおまつりしなくてはいかんわい。」
うれしゅうてそんなことをいい合っていたんやわ。そんなときになんでか、村の領主の吉原阿波という人が、
「吉原の岩尾山のふもとであれば、美しい水も流れているので、お薬師様をまつるのに良い場所じゃ。」
と、いうて、村人たちと助け合い、薬師如来様をおまつりする薬師寺を建てたそうな。
 長瀬などの街道辻には、この薬師寺へ案内する道しるべがいくつか立っておってな。はるばる遠いところからやってきた人のいることがわかるのや。石垣で築かれている広い境内跡には、まるで大きな鶴が羽を広げた姿をしているような「鶴舞いの松」というりっぱな老松が残っておって、弘法大師さんの「お手植え松」とも言われてるのや。
 昔、村人たちが手入れをしていたその松の長い枝は四〇メートルほどもあって、「おらが村の名松」と鼻が高かったのやが、畑のじゃまになるということで、地元の一人が、長い枝の一部を切り落としてしまったそうな。
 「桜雲山」という山号は、京都の醍醐寺の「すみぞめの桜」の苗木をゆずり受けて植えたもんで、毎年春には桜の花が咲きほこって、白雲のようであったことから名づけられたそうな。しかし、天正伊賀の乱で焼け、弘法大師が彫った薬師如来も焼け、この寺もしだいに衰えてしもうた。
話・井上耕一さん(明治四十年生まれ)

 現在残っている薬師如来は、高さ約一・五メートル。村の公民館にまつられています。体内の記録によると、元禄六年、井上家の先祖が我が子の供養のために、京都の仏師に四年間の歳月をかけ作らせたのだそうです。

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