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新田の用水路(新田)



 美旗地区は昔「美濃波田村」といわれておりましたんや。
 三百五十年ほど前、小波田は土地が高うて水が引けず、荒地じゃった。で、農民は米も作れへんので困ってたんですわ。それを聞いた藤堂様は、土地を開こうと考えてな。上野の藤堂藩の家来で奉行やった「加納直盛」を殿さんの屋敷に呼んで話をしましてん。
「美濃波田村は広い土地じゃが、水田を作ってほしい。やってくれぬか。」
「はい、藩のためとあらば命にかえても。」
直盛は快く引き受けたものの、水源地がないもんでそう簡単に水を確保することは出来やんかった。
 直盛は、伊勢方面にある「雲出用水」を開いた家来の西島八兵衛と相談して計画をねったそうや。
 最初は「とうのはざま池」と「大池」を滝之原と上小波田の間の山手につくった。そして何年もかかって田畑を開くことができたそうや。
 ところがな、延宝三年(一六七五)六月四日、土手が崩れてしもうてな。大惨事になったんやわ。村人は崩れた池の修理にくる日もくる日も精を出したんやが、なかなか思うようにいかんかった。それで青山町の高尾から流れている前深瀬川の水を出合でせき止めて、出合、小河内、滝之原、小波田を経て水路を引っぱることにしたんや。
 この時、直盛はもうこの世の人ではなかったそうや。その子の直堅が、この難事業を受け継いでいたんやて。高尾から約十五キロの用水路をつけるため、山を削り、岩を割り、土手を築いたりの大変な工事で、用水路にうまく水が流れるようにかたむいているかを見るため、夜は多くのたいまつを並べたそうや。
 用水路は二十年もかかってやっと完成したんやわ。この土地にはさらに広い水田が出来て、その時から人々はこの土地を新田と呼ぶようになりましてん。藤堂様は、この新田が伊賀全土の人々の協力によって出来たことを大変よろこびましてな。
「二年間は年貢を納めなくてよい。三年めには二分の一の年貢を納めればよい」
結構なおふれを出したそうやて。直堅は、村人たちの水争いを防ぐため、水路のところどころに「水戸口」をつくって、どの田にも水が平等に入るようにしたそうや。時間を区切ってそれぞれの田に水を入れる制度をつくり、そのときのようすを記した「分水戸帳」というのも残ってます。
 最近では、青蓮寺ダムからの水がこの用水路に流れてくるもんやさかいに、より大量の水を引くことが出来るんや。用水改良の記念碑に
「雨乞いも むかし語りや ダムの水」
の句が彫り込まれておるが、読む人の心を打つ句ですなあ。
話・中内節さん(大正六年生まれ)

 新田を記念して享保十六年(一七三一)に神社が建ち、新田を開いた加納親子の名をとって「加納神社」と呼ばれました。今は美波多神社となり、毎年十二月に祭礼をします。境内にある「雨乞い石」は、水不足のとき、願いをかけたといわれています。

●新田の用水路2008/4/20現在。携帯で撮影。


@改修記念碑


A由来の石碑 昭和五十二年 なばりの昔話の中内節さん


B雨乞いも むかし語りや ダムの水


C水神碑


Dソメイヨシノ苗木記念樹/川浪喜郎さん米寿記念


E新田の用水路1


F新田の用水路2


G新田の用水路3


H新田の用水路の説明板


I大きな灯篭


J近くに祠がありました。由来はわかりません。合掌

●美波多神社2008/5/2現在。携帯で撮影。


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●とうのはざま池2008/5/5現在。携帯で撮影。ゴルフ場の中ですね。


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E池を下って上小波田へ
名も無き祠1


F池を下って上小波田へ
名も無き祠2


G2008/5/7再撮影

●新田の用水路2008/6/6現在。携帯で撮影。


@初瀬(はせ)街道新田宿の途中の眺め。
家並みの切れ目で東を見ると、用水路の堤が見えます。

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