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殿籔の城(東田原)



 東田原の伊勢街道筋に「殿籔」っていうてな。とりでがありましたんやわ。城の殿さんたちが毎日、弓のけいこをした場所がありましてな。道沿いの土塁に立って、街道や小波田川をはさんでむこう側の高台に弓を射たそうですわ。高台は今、畑になってるんやが「的場」と呼ばれておりますわ。
 城は天正の乱で織田に攻められ、つぶされてしまいましたが、殿さんは代々家宝にしていた金の茶釜を、城の井戸に投げ込んだという伝説も聞いてます。夢みたいな話で今もあるかどうか、知りませんがね。この殿籔の入り口の土塁の間に、大きな石の柱が立っていたそうなんですわ。石の柱は、城跡の前を流れている小波田川で「界外橋(けいがいばし)」に利用され、架けられていたけどな、その後、橋は小波田川が改修されてコンクリートになった。架かっていた石は東田原の公民館の広場へ移されたそうですわ。
 たしか終戦直後だったと思います。私どもがそこでクヌギを植えるために、入り口近くを掘っていると、土の中から槍の先が出てきたんですわ。もう赤サビが出てぼろぼろになっていました。織田の兵のものか、味方のものかはわかりませんけれど、もしかしたら、だれかがこの槍で刺されたかも知れませんので、今でも大切に仏壇に供えてありますわ。
話・福井かずへさん(明治三十七年生まれ)

 名張には、多くの土豪が割拠していました。室町時代、勢力は安定したものの争乱期だったので、居宅を固め、“とりで”を構築。山間部の土豪は、山や自然の丘陵地を利用したのです。が、天正の伊賀の乱で、ほとんどが壊滅的な打撃を受け、戦死。居宅も焼失しました。「殿籔の城」のような跡地は市内のいたるところにあります。

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