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蓮如上人(丈六)



 京都東山大谷の本願寺の第七世法主「存如(ぞんにょ)」の長男として生まれた男の子がおってんわ。「蓮如」と名づけられ、のちに第八世法主となる偉いお坊さんや。
 蓮如が大人になったとき、本願寺は落ちぶれかけとった。復興を願って蓮如は長く、苦しい教道の道へ入り、右手にいつも錫杖といってスズのついているツエを持って歩いたそうな。
 その日は赤目の相楽(さがら)にあるお寺で村人を集め、布教をしておった。そのうち夜もふけたんで、教導を終え、村人たちはわが家へ帰った。
 ところがや。蓮如には泊まるところがない。途方にくれて歩いておったら、丈六の又次郎という百姓の家が目に入った。さっそくその戸口を“ドンドン”とたたいてんわ。気のよさそうな又次郎が顔を出した。
「お頼み申す。一夜だけ、のき下をお貸し願いたい。」
「のき下なんと言わんで、どうぞどうぞ。こんなとこでええんでしたら何日でも泊まっていきなしたらええわ。」
又次郎はあたたかくもてなし、その夜は遅くまで蓮如の話に耳をかたむけてな、心を打たれたそうや。
 それから二日たった朝、蓮如はお礼に記念の松を植えて旅立った。松はスクスク育ち、たちまち丈六の名物となったそうじゃ。
 蓮如は五十才の時、再び丈六を訪れたんや。その日はちょうど大雨の降ったあとやったんで、川には洪水になるほどの水が流れておっての。蓮如は何を思ったんか知らんけど、向こう岸に筆を一本投げたんや。驚いたことに筆はひとりでに文字をつづっての。そしたらみるみるうちに川の水が減ってしもうた。そんで、蓮如は川を渡ったそうじゃ。これが「川越の擁護」といって水神の神通力を与えたと伝えられておるそうな。
話・藤本量子さん(明治四十四年生まれ)

 蓮如は応永二十二年(一四一五)に生まれました。又次郎の家に泊まったとき「南無阿弥陀仏」の六文字を書いた和紙を渡しました。この文字は明治三十八年本山から真筆との鑑定を受け、市の文化財になっています。
 本願寺第八世法主となってから、寺の復興に努力。庶民の信望も厚かったようです。また松は「藤本」さん方玄関にあり、多くの人が感心しながらながめて行きますが、そのために電柱にぶつかったり、道筋の川に落ちることもあったようです。数年前まで枝ぶりは立派で道路に張り出していましたが、風で折れたり、ダンプカーにぶつけられたので、今は危険防止のため枝を切り落としています。
▽教道(きょうどう)=各地を巡行しながら、人々に“善”を教え導くこと。


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