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中村八郎(箕曲中村)



 鎌倉幕府が滅びたあと、天皇さんが、京都と吉野にわかれて争った南北朝の昔、箕曲中村に「中村八郎」という南朝の勇士がおったそうな。幼い頃からたいそうな力持ちで、十歳の頃には、村の大人も顔負けというほどになったそうじゃ。八郎は、村の中だけでは満足でけへんだので、日本一の力持ちになろうと毎夜黒田の金比羅神社(勝手神社)へ千日参りの祈願に出かけ、その行きと帰りに山の大木を相手にして体を鍛えたんやと。
おかげで折れたり、引き抜かれた大きな木も数知れんかったということや。
 村人たちと山へシバを刈りに出かけ、みんなが集めたシバを一人で背負って持って帰ったり、病気になってしばらく床についていたんで力が弱ったかも知れんと、庭先にあったひと抱えもする大石を持ち上げて大きな柿の木のまたへ打ちこんだら真二つに割れてしまったという話。八郎が人並みはずれの力持ちであったことの言い伝えは、ようけあるんじゃ。
 ある日のこと、八郎は家の戸板を持ち出して広保(ひろぼ)を流れている川を渡ろうとしたんやと。しかし、川は、前の日までの大雨で水かさが増え、すごい音をたてて流れていたんじゃ。それでも八郎は、渡ろうと用意を始めた。見ている人たちもな、ハラハラするばかり。誰一人止めようとする者は、おらんかった。けど、八郎は戸板を立てて水をまともに受けながらも一歩もさがらずに渡り切ってしまったそうな。
 力持ちで勇敢な八郎の名は、南朝官軍の新田義貞の耳に入り、義貞の家来になってな、建武二年(一三三五)の足利尊氏との合戦のとき、川の中で大きな鉄棒を手に奮戦して大手がらをたてたそうじゃ。
 ところがな、義貞勢は戦いに負けてしもうた。
 軍勢が天竜川まで逃げて来たときや。川は雨のために濁っておってな。渡ろうにも渡れんかった。みんなは急いで浮き橋をつくったんやが、全員が渡ってしまわんうちに綱は切れ、橋は流れてしまったんやと。あとに残った武者はウロウロするばかり。その時、八郎は武者のよろいのひもをつかんで「ヒョイッ」と宙に高々と担ぎ上げて、三十余人を次々とむこうの岸へ放り投げたそうな。最後に残った二人も両脇に軽々と抱えてな、川をひらりと飛びこえた。これを見ていた兵隊は、
「こんなものすごい武者のいる軍勢が敗れるとは信じられん。」
口々にささやいて八郎をほめたたえたそうな。
 やがて八郎は、故郷の箕曲中村に戻って母親に孝行したんやと。たとえばなこういう孝行話があるんじゃ。老いた母親がな
「八郎や。奈良の桜を一目でよいからみたいものやなあ。」
いわれた八郎は、明日散るかもしれない桜を一目でも母親にみせてあげようと
「よっしゃ。おっかあ、おれがつれていってあげよう。」
母親を背負って奈良まで出かけたという話や。
 ある日のこと、八郎は母親を背負って四国参りをしたそうな。その道中、たまたま相撲をとっている場所を通りかかったので、二人で見物をしとった。力持ちの八郎は、つい
「あんなことではあかん。あれでは負けるに決まっとる。」
一人言をいってしまったんや。ところがその声は、力士にきこえてしもうた。
 とうとう八郎は、土俵に上がらなあかんことになってしもうたんやわ。化粧まわしを渡され、つけて土俵に上がったんやが、ちょっと力を入れたとたん、まわしは「プツン」と音をたてて切れてしもうたそうじゃ。
「こんな弱いまわしじゃいかん。もっと強いのはねえのかのう。」
八郎は、もっと丈夫な化粧まわしを用意させたが、そのまわしもまた「プツン」。こうなるともうしめるものがない。だからといって相撲をとらんわけにもいかず…。考えた末、近くの竹ヤブに行って二、三本の竹を取り、手でもみ割りして腰につけたそうじゃ。
「さあて、これなら絶対に切れへんやろ。どうやら待たしてしもうたみたいやのう。さあて誰から相手になろうか。」
再び八郎は土俵に上がったそうな。しかし、相手になる者はさきほどの様子に恐れおののいてな、土俵からスゴスゴ逃げ出してしもうたんやと。
「だれか、おれの相手になるものはおらんのかあ。」
八郎は、声を張り上げて相手を探したんじゃが、誰一人土俵に上がる者はいなかったということや。それで八郎は、“取らずの関取”になったということや。
 箕曲中村の高台にはな、当時八郎が住んでいたと伝えられてる屋敷跡があってな、そこを城山と呼んでることから八郎の城があったんじゃないかと考えられるんじゃ。
話・杉森末三さん(明治四十一年生まれ)
中村八郎さん(明治四十三年生まれ)


●勝手神社2008/8/19現在。携帯で撮影。名張市黒田


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