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弓が淵(中村)



 むかし、むかし、中村の広保(ひろぼ)あたりに名張の郡役所があったそうな。その名張郡の長官にそれは美しい娘が一人おった。長官は娘を屋敷から一歩も外へ出そうとはしないほどのかわいがりようじゃった。
 そんなある日のこと、長官の屋敷に大和守菅野道臣という人がやって来た。その娘を一目見て好きになり、妻にしようと心に決めたそうな。しかし、長官は絶対反対。それでも道臣はあきらめがつかんで、とうとう娘を屋敷から連れ出してしまった。
 島ヶ原の山菅という山里で二人はひっそり夫婦として幸せな日々を送っておった。ところが、二人の居所は知れてしもうて名張から差し向けられた討手に囲まれてしもうてな。道臣は愛する妻を守るために弓で防ごうとしたんじゃが、大勢に囲まれては仕方がない。力尽きた道臣は妻に、
「そなたと暮らせて幸せであった。山里に連れてきたことをどうか許してくれ。父上のもとに戻ってわしの分まで幸せに暮らすのじゃ。」
「いいえ、私はあなたの妻。あなたさまが死ぬときは、この私も死にます。」
涙を流してすがりつく妻の言葉に道臣はもう何も言えなかったそうな。だが、ぐずぐずしてはおれん。道臣は妻に別れを告げ弓を手にしたまま淵に飛び込んだのじゃ。その後、妻も続いたかと思うと二人の姿は一瞬に渦の中に吸いこまれてしもうて、二度と浮かばなかったそうな。この淵は「弓が淵」と言われ、名張川と伊賀川が合流している下流にあり、深い淵になっているんや。
話・島ヶ原村のお年寄り

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