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薦生の渡し場(薦生)



 薦生から西田原方面へ向かって名張川を渡るとき、りっぱなコンクリートの「薦生橋」がかかっていますやろ。昔は、ここに渡し場があってな、船に乗って渡らなあかんかったそうや。東大寺の文書にもな、天喜二年(一〇五四)「薦生の渡瀬」という記録も残っていて古くから渡し場があったようなんですわ。
 その頃の渡し場は、橋の少し上流にあったそうなんやが、時代によっては下流にあったとも言われてるんやわ。
 ここは、人々が行き来するのに大切なところで、人や馬、荷物などを船に乗せて向こう岸へ渡していたんやて。奈良、天理、山添方面からお伊勢さんへ参る人達もたくさん乗ったんやわ。
 江戸時代にはな、藩から船こぎ料として、村に年八斗の年貢の免除があったそうや。渡し場には、低い橋板がかけられていたのやが、雨で増水のたびに橋板をはずすめんどうがあったんや。そのため橋板が掛けられるまで、渡し舟に乗ったんやて。
 薦生の人たちが川向こうにある田畑へ行くときも牛を乗せて渡り、帰りは農作物を積み込んだそうや。それに薦原小学校へ通う子供たちで満員になって乗れへんで、船が戻ってくるまで待ったこともあったんやわ。
 大正時代には、幅一・五メートルほどのコンクリートの沈み橋ができたんやが、これも雨で増水のたびに渡れなくなったんやて。昭和の初めに高い橋げたの木橋が作られてから、渡し舟はいらんようになってしもたんやて。
話・武田昌一さん(大正八年生まれ)

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