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有綱の碑(薦生)



 昭和の初めやったな。わしの家に、古い大きな木がありましたんや。ある日じゃまになったでな、取り除こうとして掘ったんや。すると、ぽっかりあいた穴の底に思いもかけぬものがありましたのや。
 こびりついている土を井戸水で洗い落とすとな、表面に「神源有綱」とはっきり読みとれる文字が刻んである石碑やったのや。最初は無縁さんの所へまつるつもりやったが、予野(上野市)のあるお坊さんがこの碑を見てな、
「このあたりでナギナタを持った女たちが倒れているようじゃ。有綱はんは、人目につかん場所にそっとしまってくれと言ってるがな。これから、毎日欠かさず水と線香一本を供えてやりなはれ。」
不思議なことを言うたんやわ。
 そしてしばらくたったある日うとうとしてたらな、
「有綱はんは、苦しゅうてかなわんと言っているがな。」
夢の中でこう呼ぶ声が聞こえたんや。目をさまして碑を見ると、夢の中の言葉通り、ツルが巻きつき碑が傾いておったんじゃ。
 碑は予野の人に言われたようにして、裏庭でそっとまつり、毎日欠かさず掃除もしています。有綱を埋めたと伝わる「天神塚」はわしの家のすぐ東の畑の中ですわ。
話・井戸本義正さん(明治三十七年生まれ)

 薦生は源有綱が自害をした地と伝承されています。有綱は源義経の娘むこ、頼政の孫で、義経が兄頼朝に追われ、重臣だった有綱も同じ目に会いました。有綱は吉野から山辺(奈良県・榛原町)に逃れましたが、ここでも頼朝の追討を受け、祖父頼政の領地である薦生の地へ山伝いに逃げて来ました。薦生には源氏の一党である武田氏が住んでいましたので、ここでしばらくかくまわれていたのです。
 ところが、頼朝の命を受けた伊賀の服部六郎時定が軍勢を引きつれて、有綱の立てこもる薦生の山城を攻撃しました。有綱は勇猛果敢な武将らしく戦いましたが、多勢に無勢。嫡子の有宗に六人の家来をつけて乳母の弟である予野の萱左衛門もとに預けたあと山城で自刃して果ててしまいました。文治二年(一一八六年)六月十六日のことといわれています。
 予野の地を無事逃れた嫡子有宗の家系は、為盛→景守→元成→清次と続き、清次は郷土が誇る「能」の大成者である観阿弥となりました。
 また、有綱には有宗ら四人の子供がいて、次女は柏原の城主である滝野上野介の妻になったと伝えられています。


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