「どやな。わしの方が清兵衛はんより一羽多い。鉄砲の名人はわしや。」
誇らしげに清兵衛やまわりの者に言うたんや。
ところが、しばらくして、みんなの獲物の数を確かめた役人が、
「鉄砲うちの名人は清兵衛に決まった。」
みんなに聞こえるように大声で言うたんやわ。が、源助はどうも納得でけへん。
「お役人様、それはどうしてですかのう。」
気にくわない顔つきで役人に尋ねたそうな。
「清兵衛の撃った弾は、みんな鳥の足に当たっておる。これは、だれにでも出来るわざではない。」
清兵衛に理由を問うたそうな。
「へい、体を撃つと肉が飛び散ってしまうので、足を撃つのでございます。」
これを聞いた源助は、あっさり負けを認めたんじゃ。
清兵衛には、清次郎という息子がおってな。もちろん父に負けないぐらいの鉄砲の名人で、番取山の国境を守る鉄砲隊役人として活躍した人じゃそうな。
番取山はちょうど伊賀と大和の国境じゃ。古い記録には、このあたりをおさめていた藤堂藩が伊賀を守るために「とりで」を築いて弓や鉄砲隊を置いておったことがわかっとるんや。山のふもとにある大岩に鉄砲うちの練習でできたような弾のあとも残っているぐらいや。
この地区の川口家には当時の火縄銃が残っていて、木の鉄砲たてもたくさんあったが、どれも虫食いがひどうて家を建てかえるときに処分してもうたそうですわ。
昔は、「川口屋」という旅館でな。伊勢参りや初瀬参りの旅人を泊め、奥の離れの大部屋では、旅芸人らの演芸会もよう行われたそうじゃ。当時の街道は、番取山の北側で人力車もその山道をこえて通ったそうじゃ。
今では国道一六五号を番取山と宇陀川の間を通っておってな。轟音と共に走る車をながめておると昔話は夢のまた夢のようですわ。
話・川口あさゑさん(明治三十年生まれ)
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