back

法然上人の墓(黒田)



 今から八百年ほど昔の鎌倉時代にな、「法然」という人が比叡山で仏道を修行したそうやわ。男女の区別ものうて、年寄りも若い者も、ただ「南無阿弥陀仏」と一心に念仏すれば、死んでから極楽にいけるという「専修念仏」を説いた名僧やが、後鳥羽法皇と仲たがいしたためにな、建永二年(一二〇七)四国に流されることになってしもうて、その途中で現在の大阪府・勝尾寺にとどまったんやわ。法然は東山大谷に住んだが、八十八才で死んで、京都の知恩院へ埋められたんや。
 それから十六年ほどたったときに、天台の山法師らが法然の墓を掘り荒そうとしていたんでな。法然の弟子らが一足先に墓を掘って遺体を分けて箱に入れ、長岡の栗生の光明寺や各地に埋めたといわれてるんやわ。
 名張にも弟子の一人が、京都から遺骨の一部を持って帰って供養、法然寺を建てたといわれてるんやわ。上人をまつった石塔の正面にはな、法然のほか歴代六名の僧名が彫られていて、左側には「願主沙門(僧職の意)知玄」とあってな。門弟の知玄が建てたことがわかるのや。右側には「至徳元年(一三八四)六月二十五日」の建てた日を表す年号があって、名張ではめずらしい北朝年号やわ。この年は、上人が死んでから百七十三年目にあたるのや。石塔は愛宕山のふもとの平地にまつられているのやが、この山の頂上にも石垣の平地があってな、ここに愛宕神社があったといわれてるんですわ。大雨のときには、山の斜面の土砂が地蔵などとともに崩れ落ちた。それらは、お堂の周辺にまつられているのやが、中には五輪塔や道祖神(旅行の安全を守る神)もあるんやわ。おそらく、昔、山くずれがあったために法然寺の建物や石仏が埋まってると思うわ。お堂の下あたりには一メートルほどの長石が埋まっているそうやがのう。
 法然寺は、当時かなりの大寺であったのやが、天正伊賀の乱で焼けてしもうて、今、そのあとは「貴人坊」と呼ばれているのや。
話・山口正雄さん(大正六年生まれ)

▽後鳥羽法皇(ごとばほうおう)
▽専修念仏(せんじゅねんぶつ)=ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱える。
▽北朝年号=南北朝時代は、両朝が別々の年号を用いていた。


top

back