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二人の孝女碑(安部田)



 昔、鹿高に「井上文助」と「鹿蔵」の兄弟が住んでおった。明治の初め、一ノ井出身の「奥西たつ」という二十一歳の娘さんが兄さんの文助に嫁いで来ましたんや。それから九年後、矢川出身で、二十二歳の「山口みと」さんが弟の鹿蔵の嫁になりましたんや。兄と弟の夫婦は同居していて大変仲が良く、農業のかたわら材木商をやっておったんじゃ。
 ところが、義母が中風にかかって半身不随で寝たきりになり、目も悪くなってしもうた。義母は、ちょっとでも気にくわないものなら、大声でどなりつけるほどの気ままな人だったそうじゃが、二人の嫁はグチもこぼさず世話をしてのう。食事や寝起き、便や着物の取り替えなど、二人で力を合わせて一生懸命やったんじゃ。
 義母は風呂に毎日入らないと気がすまないほど風呂が好きで二人の嫁は抱えて湯につけ、体をきれいに洗ってやった。夏には二人がかわるがわる、うちわで風を送り、冬には体が暖まるように工夫をし、薬も欠かさず飲ませましたんや。農業と材木商の仕事は、昼夜休む間もないほどだったのに、義母の世話を続けもちろん夫にもよく仕えてきてのう。それが何と二十八年の長い間続いたそうじゃ。
 この孝行ぶりが村々に広く知られるようになったのは、いうまでもないことで、病気の義母の世話を長い間続けた二人の嫁は知事から表彰を受けましたんや。誰にでもできることではないというのが理由だったそうじゃ。
 これを記念して明治二十九年二月、当時の村長だった「杉本甚三郎」さんら十数名が発起人になって、二人の孝女碑を権現坂に建てましたんや。その日、村中からたくさんの人が集まり、モチまきをして祝ったんじゃ。孝女碑は、今では阿清水橋の前の国道端に移された。二人の善行を見習って、親や年寄りを大切にしてほしいものじゃ。
話・吉岡志ゆさん(明治三十六年生まれ)

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