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観阿弥創座の地(上小波田)



 古くから、能楽の創始者として知られている「観阿弥」はな、元弘三年(一三三三)、上小波田の「竹原家」で生まれたと聞いていますんやわ。本名を「観世清次」というてな。少年時代、「猿楽」が盛んだった大和、摂津、丹波の国を次々と旅して猿楽を勉強。そうしてな、三十才頃に故郷の小波田に帰り、領主だった「竹原大覚法師」の娘を嫁にもらったんですんやわ。
 数年後、義父の大覚法師にあと押ししてもらってな。座を結成したんやわ。その座のことについてはな、世阿弥(観阿弥の子)の次男「元能(もとやす)」が、父の話を聞きながら書いた『申楽談義』に「伊賀小波田にて座をたてそめられし時…」とあり、観阿弥が小波田で座をたてたことは確かですんや。
 応安七年(一三七四)五月、観阿弥が四十三才の時、京都で能の大会を開いたんですわ。それを見にきていた、当時十八才だった足利義満は、観阿弥と世阿弥の芸に惚れ込み、二人の後見人になったんですわ。こうして二人は、義満の保護を受けて、猿楽を大改良し芸術として立派に大成したんですんやわ。
 今ではな、観阿弥の生まれた竹原家の屋敷はなくなってしもうて、ただ長い石垣が残り、畑となってますんや。
 現在、赤井塚の北約二百メートルの国道一六五号線に沿った所にな、『観阿弥創座之地』と書いてある大きな標柱がたってるんですわ。そして、旧福田神社跡にな、記念碑が建てられ、毎年十一月には、観阿弥まつりが盛大に開かれていますねんわ。
話・山口まつのさん(明治三十五年生まれ)

▽猿楽(さるがく)=「申楽」とも書く。唐(中国)から伝わった古代、中世の芸能で「散楽(さんがく)」がなまり、「さるがく」となって、平安時代以降「猿」「申」の字をあてた。内容は、物まねや奇術、曲芸など。
▽足利義満(あしかがよしみつ)=足利三代目の将軍。金閣寺を建てたことで有名。



●観阿弥創座の地2008/2/25現在。携帯で撮影。国道165号線のすぐ南側です。


@国道165号線のすぐ南側より


A入り口に美旗古墳群の案内板/説明部


B入り口に美旗古墳群の案内板/地図部


C入り口に美旗古墳群の案内板


D少し上ると観阿弥創座の地の案内板


Eなばりの昔話の語り手、中内節さんの名が…


F観阿弥創座の地の石碑


G福田神社跡の石碑


H明治三十六年と読めましたが…?


I「よきお能〜」の石碑ですが…?


J正面


K左側


L右側


M右奥(何やら…?)


N右奥/正面


O右奥/右(わら)


P右奥/奥(山神)


Q5分ほど南に歩くと鳥居が…


Rお稲荷さんですね。合掌

●観阿弥創座の地2008/6/21現在。携帯で撮影。


@南側から入ると、以前あった鳥居がなくなっていました。


A山の神の鳥居が老朽化したんですね。


B鳥居の解体後です。手入れされている方は本当にご苦労様です。

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